愛あればこそ

宝塚愛をこじらせたヅカヲタの戯言

作品の舞台であるフランス領インドシナの歴史を『舞音』と重ねてみる。

どうも贔屓の出演する舞台は深入りし過ぎてしまって客観的に感想を書けません。

 
『舞音』初日から2度大劇場へ遠征して数回観劇していろいろと感じてきました。それはもう少しあたためて、大劇場の千秋楽を観た後にでも記してみようと思います。
 
今日は『舞音』の舞台、フランス領インドシナのお話を絡めて感想というよりも覚書程度のものを。
 

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お話の舞台となるフランス領インドシナは日本のように南北に伸びた地域で現在のベトナムカンボジアラオスを合わせた領域。面積もなんとなく日本の本州くらいの大きさです。後に第二次世界大戦で日本が進駐する地域でもあります。
 
この縦長の地形ゆえ、日本のように北部と南部で気候が異なります。北部は亜熱帯気候、南部は熱帯モンスーン気候。
 
シャルルが赴任したサイゴン(現ホーチミン)は南部に属する地域。後者ですね。一年中高温で夏の時期は雨期に入ります。この時期、特に午後はスコールに見舞われることが多い気候。シャルルもサイゴンに降り立った途端、激しいスコールに見舞われています。1929年夏でした。
 
この、何気にスルーしそうな幕開き冒頭にまさきさんの声で語られる時代背景。これから始まる物語の伏線だからね。大事。このあとシャルルは舞音に恋をし、かたや独立運動の波に巻き込まれていくわけです。
 
1930年。ベトナムの歴史の中にひとつの事件があります。
 
1927年のクリスマスにハノイベトナム国民党が結成されるが、このベトナム国民党は、武装闘争によって祖国の主権を奪回し、共和制政府を樹立して、国家建設計画を実行する旨を主張する一種の革命政党であった。党設立に先立つ国民党の指導者たちの改良主義的な諸政治活動が実を結ばず仏当局から弾圧を受けたことから、北ベトナム地域の知識人民族主義者を中心に結成された党であるが、政党設立の当初から、武力によるフランス植民地権力の打倒を目指していた。党首にはグエン・タイ・ホック(阮太学)が選ばれた。イエンバイ蜂起とは、ベトナム北西部のイエンバイ(YEN-BAY:安沛)で、このグエン・タイ・ホック率いるベトナム国民党が1930年2月10日蜂起した事件。
 シャルルがサイゴンに赴任した翌年に起きた事件です。
シャルルが舞音と暮らすためにトゥーラン(現ダナン)に居を移したのが1929年のクリスマス時期に「La Pelre」で再会した後と推測すると、そこから約2ヶ月後の事件です。
話は逸れますが、シャルルが舞音に出会い一夜を共にした夏から運命の再開を果たした冬まで約3~4ヶ月の時間があることがここでわかります。この間、シャルルはずっと舞音のことを忘れようと必死にもがいていたわけですね。クリストフからの忠告や家族からの手紙、カロリーヌとの婚約話の間で揺れながら。舞台だとあっという間の再会に思えてしまうけど、これだけの時間がふたりの間には流れていたわけです。
 
スミマセン、戻ります。「イエンバイ蜂起」の記事に他にもこんな記載があります。
鉱山やゴム園の苦力労働者の斡旋で荒稼ぎをし「新世界」(娯楽場)の社長をしていた在住フランス人商人バザン(BAZIN)をハノイ路上で暗殺した。
 ちょっと脚色は入りますが、「紅虎」(賭博場)に出入りしていたクォン(珠城りょう)を革命家であるソン(宇月颯)が銃殺する場面とリンクします。
 
グエン・タイ・ホック自身は、1930年2月20日、ハイズオン県のコ・ヴィット部落で誰何されて逃げようとしたが足を撃たれて逮捕される。
これはハロン湾への船着き場でソン率いる革命家たちがフランス政府に立ち向かい、囚人を助けて逃げようとした時にカオ(朝美絢)が 足を撃たれる場面とリンクします。
 
 
シャルルがサイゴンに赴任してきたのはこの事件の前年。フランス軍に占領され極限に貧しい暮らしを強いられたインドシナの人々が耐えに耐え、その苦しみが今にも爆発しそうなぎりぎりの時期だったんですよね。この「イエンバイ蜂起」とそんな時代背景を思いながら『舞音』を観るとまた違った角度から観ることができます。
クォンの言う「フランスからもインドシナからも疎外された」怒りも、ホマの言う「家族が飢えて死んでいく」原因を作ったフランスへの憎しみも、それらに直面しながらもただ愛を探し求めていた舞音の悲しみも。
 

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そしてこのお話の舞台はサイゴン(現ホーチミン)→トゥーラン(現ダナン)→ハノイハロン湾とだんだん北上していきます。暑くて蒸した南の地から日本の気候に多少は近づく北の地へ。ふたりの愛が少しずつ深まりながら湿気を帯びた空気がカラッと乾いて視界が開けていくかのように。
シャルルと舞音が暮らしていたトゥーランから舞音が収容されたホアロー収容所のあるハノイまでは約600km。東京から宝塚よりちょっと先へ行くくらいの距離です(わかりやすいでしょ)。この距離を軍を辞職するまでシャルルは毎日のように舞音に会うために往復していたんですよね。愛の力です。まあわたしもまさきさんに会うためなら毎日でも東京とムラを往復しますけどね。安定。
ハロン湾流刑が決まってハノイの船着き場に連れてこられた囚人たち、そしてそこに集まったインドシナの人々が歌う(まさきさん曰く)鳥の歌。とても力強くとても繊細で鳥肌が立ちました。
 
 

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舞音がシャルルの腕に抱かれて最期を迎える霧のハロン湾。ちょっと中国の桂林を彷彿とさせる神秘的な場所です。漢字で書くと“下龍湾”。舞音の台詞にもあるように「龍が降り立つ地」という伝説がある場所。初日にちゃぴの「龍が降りてきてこの国を守ってくれたの」的な台詞を聞いてちょっと笑ってしまいwwww。すみませんでしたまさきさん。
フランス政府の追手から逃れて一隻の船に乗り込みハロン湾を漂うシャルルと舞音。「決して悲恋ではないんです。」とまさきさんが言っていました。
舞音がまだ本当の愛を知らずシャルルとの裕福な暮らしを楽しんでいた時にシャルルは舞音に「幸せか?」と聞きます。自身の愛が報われないことを嘆くよりも舞音の幸せを願うシャルル。そんな無償の愛を受け、シャルルの腕の中で本当の愛を知り満たされた舞音。死の際でシャルルに今度は舞音から「幸せ?」と問いかけます。心から幸せそうに。そして初めて心から口にする「愛してるわ」の言葉とともに息絶える舞音。絶望の中、オールを持って舵を取っていたもう一人のシャルルと初めて向き合い、言葉を交わすシャルル。ここで初めてふたりの思いが重なってもう一人のシャルルは消えていきます。もう誰も舵を取る人がいない船。最後シャルルは死した舞音を腕に抱きながら決意の表情、そして幸せそうな表情をしてハロン湾に消えていきます。
 
振りかえればただひたすら自身の愛を全うするためだけに生きてきたシャルル。ただひたすら愛とはなんなのかを求め探し続けて生きてきた舞音。どちらの思いも叶った今、幕が下りた後の結末がどうであれ、ふたりは幸せであったに違いない。そう思います。
 
 
宝塚の作品としての『舞音』。今は深くは書きませんがモヤモヤするところは所々にありました。ただシャルルと舞音のラブストーリー、もっと言ってしまえばまさきさんとちゃぴのラブストーリーという要素だけでだいぶ満たされています。舞音のセリフじゃないけど「このまま時が止まってしまえばいいのに」な心境です。やっぱりたまきちに抱かれるちゃぴなんてヤダよおおおおおおおお!!!(涙)(往生際悪いですね)
 
 
あと。20年くらい前のフランス映画に『愛人/ラマン』っていう映画がありまして。フランス映画ニガテなのでちゃんと観てはいなかったんですけど当時その大胆な性的描写が話題で(こっそり)(えへ)流し見したことがあります。あの映画の舞台も1929年のフランス領インドシナ。こちらはフランス人ではあるけれど男を翻弄する少女と翻弄される華僑の青年との話。蒸し暑そうなベトナムの退廃的な空気感と相まって印象に残っています。舞台よりリアルに描かれる映像だからこそ今もう一度観たら何か見えるものがあるのかな、と思っていて『舞音』公演中にはできれば一度見てみたいと思っています。時間があったら、ね。
 
 
 
最後に。10年ちょい前にベトナム旅行した時の写真を懐かしみながら。
 
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ハノイの田舎、バッチャン焼きで有名なバッチャン村の光景です。4枚目はハノイ中心部の市場。ホーチミンにも行ったのですがあまり写真がなく。当時はまだベトナム戦争の傷跡が生々しく残っていてホーチミンの繁華街を歩いていると道のあちこちに地雷や爆撃で身体の一部をを失った戦傷者の方たちが観光客に物乞いをしていてちょっと怖かった記憶があります。だからあまり呑気に写真撮ったりできなくて。

アオザイも作りました。まさきさんも言っていましたが本当に体のあちこち、たぶん30ヶ所くらい測ったと思う。できあがったアオザイは本当に体にぴったりで1グラムでも太ったら着れなさそうな感じでした。ええ、今はもう全く着れませんが何か。ほっといてください。